こんにちは!HanFilmです🌸
今回紹介するのは、小説
『わたしに無害な人』
(原題: 내게 무해한 사람)
『ショウコの微笑』でデビューした作家チェ・ウニョンが、若さゆえに感じるむき出しの感情を綴った短編集です。
あの夏
恋人
他人を理解したいと思えば思うほど、それが叶わない時の自分への失望は大きいものです。
愛、という言葉で包んでしまえば輪郭がはっきりするかのような形無き感情が、移り気な興味というあまりに剥き出しで人間的なものとして描かれます。
自分自身を変えることができないのに、そうして変わらない自分を愛することもできないというのは、自身のアイデンティティを認識しながらも、それを愛することができないジレンマです。
絶えず変化する自分という存在の中には、意識して変化させることのできない部分があります。
自分の意思から離れて、本能的に抗うことのできないあまのじゃくな自身の姿は、どれほどもどかしいものか、程度の差はあれど多くの人が共感できるのではないでしょうか。
人生をひととき共にするということは、その人の喜びだけでなく、悲しみや怖さも共有してしまうことです。人の持つ共感能力はときに痛みを伴うのです。
優しさに傷つき、憎しみを願うという一見すると相反する思いは、真実を求める姿です。
中途半端な嘘によって守られた傷を、むしろえぐってくれたなら。そう思うのは、全てをさらけ出した他人だからこそでしょう。
六〇一、六〇二
家族
本編とは関係ないのですが、私は「愚息」という言葉が嫌いです。世の母親が謙遜としてよく使う言葉ですが、それが家族という関係を踏みつけているように思えるのです。
もちろん、誰よりも我が子をわかっているであろう母親。お腹を痛め、長い間自分のように大切に育てた子供。その歴史を含んでもなお、「愚息」という言葉には重力があります。
劇中、母に向かって家族や親戚という関係の浴びせる暴言に対する「死装束」という表現があまりに的確に思えます。
反抗心が決して勝つことのできない抑圧と諦めは、母のみならず社会全体がまとう死装束なのです。
女性として生きていくことの閉塞感が、吐き気を催すほど濁った男尊女卑が、壊死してしまった古傷のように残ります。
過ぎゆく夜
姉妹
姉妹間には母性愛も無ければ、仲が良くない場合には繋がりを意識することもありません。あるのは戸籍上の繋がりだけ。
ぶっきらぼうでぎこちない間柄。腹立たしくもやもやする幼少期の記憶を、愛と呼べないとしても、つながりはつながりなのです。
何年もあっていなかった姉妹の再会を描いていますが、私からすると、劇中の彼女たちくらいの距離感もかなり仲の良い姉妹という印象です。
他人よりも他人のようなよそよそしさと、共有した時間の長さと心の距離が比例しない関係性。姉妹関係でなくとも、そうした不器用さと心地よさの共存は奇妙なものです。
砂の家
友人
パソコンの中のコミュニティという空間。現代のインターネットとは全く違うものと言えます。
透明で広大な現代のデジタル社会。それとアナログの真ん中にある、最小限のコミュニケーションツールという閉鎖的な特別感にわくわくを覚えます。
友情を築きながらも傷つき合う3人。目に見えるものをどうにか理解しようとした、そして理解したと思っていた過去の自分。
人間の理解について、「理解を求められる側」の人間であることは、子供でいることでも大人になることでもないのです。
それは自分を納得させて生きていくための答えのようなものですが、答えだと思って隅に置いた理解は、実は答えではないのです。
そうして積み上がった理解は、決して開けられることなく埃をかぶっているのですが、ときにそれが崩れ去る瞬間というものが来ます。
崩れ去るというか、箱に入れておいたと思ったのに開けたらそもそも中には何も無かったという虚無感のようなものがあります。
「理解を求める側」のエゴによって造られた虚像に従順であること、そもそもいつからそんな関係性が出来上がってしまったのか、そこには暴力があるのです。
力なき者が理解しなければならない世界。そして力なき者と定義される社会的弱者は、自分の意志とは関係のない呪縛に囚われているのです。
相変わらず暴力に支配され続ける世界が、あまりに陳腐で幼稚な世界のように思え、脱力します。
愛という錯覚にあぐらをかいて、どれだけの人が泣くのでしょう。愛が善きものでしかないのなら、なぜ多くの人が苦しむだろうと、その相互的な依存性がまとわりつきます。
告白
親友
相手の痛みを知るにはあまりに近すぎる、その感情をはっきりと見ることのできない10代。そして、だんだんとそれが見えた頃には、自分自身の傷さえもあまりに生々しく見える「大人」になっています。
タイトルでもある「わたしに無害な人」が描かれます。「無害」と定義することは、なんとなく希薄な人間関係に対して使われるような気がします。
無害であることで傷つかずにいたい。私自身なんとなくそんな人間です。ただ、生きているとそういうわけにいかないのです。
理解を諦めた果てにある距離のある言葉。無数の出会いの中であなたにとって「無害な人」はいますか?
無害であることは一方的な考えです。そして絶えず変化していく考えでもあります。ただ無害だと断定した人自身は、まるでそこが安全地帯であるかのように思うのです。
そうして、無害という括りの中にいた誰かが浮上してくると困惑するのです。それが喜びであれ悲しみであれ、はたまた怒りや痛みであれ、心が動く対象である以上その人は決して「無害」ではないのです。
かといってそんな人がいないわけではありません。というか無害という性質は誰もが持っているように思います。
誰にでもいるようなそんな存在は、また違う誰かにとっては心動く存在なのです。そういう意味で、この本の主人公たちは誰ひとり「無害」ではないのです。
そしてそれは、疎遠になったことで無害になるのではないこともわかります。遠く昔の記憶でさえ、人を喜ばせ、泣かせ、乱すのです。
差しのべる手
叔母
取り残される虚無感は、無情な怒りともどかしさに似合わない、そんな自身の動揺を含んだはずの冷静さがどこか虚しいのです。でもその冷たく突き放すような距離の取り方には、まだ熱があるように時間の温かさも感じるのです。
理解すること、関係性を噛み砕いて消化する方法は人によって違っていて、理解してしまうという行為そのものが、関係を過去のものにしてしまうことになる。幸せな過去がいっそ真っ暗だったなら、きっと遠い過去のこと、と掃き捨ててしまえるのに。
アーチディにて
知っている人
他者からの評価によって形になる自分の姿は、水のようにつかみどころがなく、それに気づくと形なく崩れ去ってしまう幻想です。
自身のアイデンティティをかえりみて、すべての自分を受け入れることができる人がどれだけいるでしょうか。昔の純粋さを懐古したり、もしくは昔の愚かさを悔やんだりもするでしょう。
捨ててしまいたくなる自分がいようと、それは歴史として一生ついてくるのです。
家族、友人、同僚、そんな互いに寄りかかりながら生きる人々とは違い、なんの脈略もなくただそこに立っている他人。
時々そんな人が心に入ってくるのは、その相手よりも自分自身と向き合うときです。相手に興味を持つと同時に、自分の内面を見つめているのです。
その関係には、始まりや終わりがなく、物理的な距離や時間に定義されることもありません。
保証されたものなど何もない人生で、私たちは未来に期待して勝手に失望するのです。
もし望んだ人生でないと感じるならそれは、人生が私を裏切ったのではなく、自分の期待の代償の痛みなのです。
最後に
自分にとっての自分は一生特別でしかないけれど、他人にとっては一生他人であるという事実は、痛みの本質を100%うかがい知ることが不可能である、脱力感のようにも感じられます。
しかし、物語という体験を通して私たちが感じる感情すべてはきっと、著者の経験した、また多くの人が経験したそれに限りなく近いものではないでしょうか?
最後までご覧いただきありがとうございます!
次回の記事もお楽しみに!😊